まず初めに。生い立ちについて

必死に死ぬ気で生きてきた29年間。

いろんなことを経験しました。それは私にとって
人生の試練とも言えるような壮絶なものでした。
 
まずは、生い立ちから順に説明しようと思う。
 
ある田舎町のへんぴなところに生まれた私の一番古い記憶は
お母さんとお父さんが怒鳴りあってけんかをしているところ。
兄と二人、階段の踊り場でしくしく泣いてた。
 
父と母は、金銭のことでもめていたらしい。
ほどなくして、離婚したが私と兄は一旦父のほうへと引き取られた。
どってについていきたい?と母に聞かれたような記憶もあるが
そんなの子供が選べられるわけがない。
 
父のほうへ引き取られたはいいが、机の下に隠れ、泣きすぎて
食べたものを吐いた記憶がある。
 
この時私は、まだ幼稚園生だったと思う。
 
この時までが、人生の中で一番幸せな時だったかもしれないと今になれば思う。
泣き止まない私と兄を見かねたのか、父が母に一本電話をかけた。
そして、私と兄は母のほうへと引き取られた。
子供にしてみれば押し付け合いにしか感じないがどちらかについていくしか
生きていけないのだから仕方ない。
 
母は、薄暗い部屋の中、勉強机の明かりの下で仲の良かったころのアルバムを広げ
泣きながら私たちを抱きしめて これからは三人で頑張ろうといった。
 
それは、すぐ嘘に変わるとは思いもしなった。
 
さあ、ここからが不幸の本番。
 
枠にもれず母は虐待をし始めた。
幼かった私たちを事あるごとに、ほうきやハンガー、ベルト等で
思い切り殴りつけた。何度も何度も物が壊れるまで何度も。
蹴り飛ばし殴りつけ髪を引っ張り引きずり回した。
暴言を何度も何度も吐いた。
 
しね!!!生むんじゃなかった!!
お前らのせいで自由がない!金がない!
お前らなんかいらないのに!
 
夜中に寝ていると蹴り飛ばされた。
怖いので薄目を開けて寝ることにした。すると
薄暗いへやのなか音もたてずに横に座り何をするのかと思えば
母が寝ている私に殴りつける真似をしているのが見えた。
 
怖かった。いつか殺されると思った。
 
ご飯も作ってもらえなかった。朝も寝てばかりで何もしてくれない。
宿題も気まぐれに見てはくれるが鬼教官のように横に居座り
少しでも、分からないと言ったり、間違えると三十センチの物差しで手をたたかれて
鉛筆をへしおられて、しまいにはいつものようにほうきやハンガーで
殴られた。何時間も。おしりが座れなくなるほど真っ黒になった。
 
背中やおしりはいつも痣だらけだった。
 
小学生の時、先生にその痣は何かと聞かれ、私と兄は階段から
落ちただけだといった。
先生たちはこそこそ話していたがその時はうまくごまかせたと思った。
 
その考えは甘かった。
先生たちは無慈悲にも家の母へ電話をし痣のことを聞いたのだ。
ただいまと帰ると鬼の形相で電話してる母。
終わったと思った。電話を切った次の瞬間。
「お前ら。虐待されてるってチクっただろおお!!!」
 
そこからはあまり覚えていない。このまま死ぬんだと思ったことは思い出せる。
 
そんな母は、私の私物を管理するのが趣味らしい。
私が中学生になっても高校生になっても29歳になった今も
勝手にカバンやタンスの中身を見ては、こんな物もって、金はどうした。盗んだものか?と
平気で聞いてくる。
こんな母とは縁を切りたいところだがそうもいかない。
これまで育ててくれたのは母ではなく祖母なのだ。
祖母は母と一緒に暮らしている。
父と母が結婚してからも二世帯住宅で一緒に暮らしていた。
 
私と兄はよく二階にある祖母の宅で遊んでいた。
いつも優しかったのは祖母だけだ。
 
祖父は祖母にいつも暴力をふるっていた。
ある日の昼、私は祖母の優しい子守歌で寝かしつけてもらっていた。
あの声もリズムよく優しくぽんぽんと叩いてくれる手もよく覚えている。
いつの間にか寝ていた私はハッと目を覚ました。
横で寝かしつけていたはずの祖母は
なぜか祖父に殴られていた。
夕暮れ時の薄暗い部屋で殴られて抵抗している祖母のシルエットが見えた。
私は泣きながら母のもとへ走った。
「ばあちゃんがたたかれとる!!」と大きな声で訴えた。
 
しかし、母の口から出たのは「なんでお前がとめんのや」
という信じられない言葉だった。
今考えても幼稚園児に何ができる。
そもそも殴られていることに気づいていたのではないか。
大人になってかのほうが母の異常性がよくわかり
嫌悪感が増していく。
 
そのあとのこともよく覚えていない。
祖母でいえば、何で喧嘩になったのかは分からないが
母に階段の踊り場で首を絞められながら突き落とされそうになってたのを
階段の下から泣き叫びながらみていた記憶がある。
何度もふいに思い出してしまう悍ましい記憶だ。
 
兄のことも触れておく。兄も昔はとてもやさしかった。
殴られている私を小学生にして身を挺して守ってくれた。
私の上に覆いかぶさり、かわりに殴られてくれた。
それを見た母はさすがに、殴るのをやめた。
しかし、口下手で家では虐待を受けているせいで学校ではなじめないようだった。
何がキッカケになったのか女の子を鉛筆か何かで刺してしまい問題になったことがある。
私と兄は一歳半しか違わない。だから授業を受けているとなぜか廊下を徘徊している兄もよく見かけた。
いじめを受けていたのだ。
放課後の児童館で兄はよくしくしくないていた。
あの時の兄の同級生よ。私は今でも許さない。
家だけでなく学校でも居場所を失えば幼い子はどこをよりどころにしたらいいのか。
子供のしたことといえど、居場所を奪う権利なんてない。
 
あの頃は虐待も今ほど、問題視されなった。
虐待にはいろいろな背景があると思うが、
母の場合、祖母は仕事の休みの度家に来てくれて(母が呼びつける)
車のない母の代わりにいろいろと連れて行ってくれた。
家のことも、ご飯も支度してくれた。
 
お金は大変だったかもしれないが無駄遣いも多かったし
学校のものもおもちゃも誕生日ケーキだってなだらなかったのに
新品のものを買ってくれても使わせてはもらえなかったのに
シャーペンや消しゴム、ノートの必要なものですら
なくなったから新品を探して使ったら盗人!と怒鳴られたのに
 
母は甘えているだけだ。
 
50代を過ぎた今も、私と一回り年の離れた弟を育児放棄して
祖母に家のこと、弟の送り迎えを全部押し付けて
仕事だけしていれば偉いんだというような物言いで、
(実際、祖母に誰が目飯食わしてやってると言ってる。)
ふんぞり返っていて、何でもかんでも自分の思い通りにならないと怒鳴りだす。
弟の洗濯も食事の用意も勉強を急かすことも送り迎えも学校のこともすべて祖母に押し付けて
私たちの時もそうだったのに、仕事だけしていればいい状況でつらいつらいと、
虐待してストレス発散するのだから甘えている以外に考えられるのは
何か病気なのだろう。
 
おかげで私たち兄弟はろくな人生を歩めない。
 
長いので次に続く。。。